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写真家・フルタヨウスケによる《Lethe(レーテ)》は、夜の海上を航行するフェリーから、陸地に向けて3分間の長時間露光で撮影された写真作品である。露光中、揺れる船体の動きとともに都市の灯りは滲み、線のように波打ちながら画面に記録されていく。その光の軌跡は、まるで心電図のように脈打つが、そこに写るのは都市の鼓動ではない。むしろそれは、この光を見つめる鑑賞者自身の、内奥にかすかに響く存在の残響である。
タイトル《Lethe》は、ギリシャ神話に登場する「忘却の川」に由来している。死者がその水を飲むことで生前の記憶をすべて失い、魂は転生へと向かうとされる。フルタはこの神話的象徴と、現代都市の風景とを重ね合わせる。夜のフェリーから眺める陸地の光は、都市に生きる人々の欲望の痕跡として可視化されるが、それは写真の中で徐々に抽象化され、やがて意味を持たない線へと変質していく。その過程は、まさに欲望が忘却に沈んでいく様そのものである。
この光は、単なる風景の記録ではなく、人間の存在や記憶が死の静けさへと近づいていく時間の可視化である。重要なのは、船が向かう先が「光に満ちた陸地」ではなく、やがてその陸が見えなくなる、海の闇の奥=死の象徴であるという点だ。写真は、視線の先にある「確かな場所」が徐々に失われていく時間を捉えている。
その構図において、鑑賞者は安全な岸辺に立つ者ではなく、未知の暗がりへ向かって進み続ける船の乗客として、その風景を目撃することになる。
この作品は、近代以降の写真表現の文脈とも強く結びついている。19世紀のピクトリアリズムが捉えようとした詩的な時間の流れや、モホリ=ナギによる動的な光の実験、杉本博司の長時間露光による時間の圧縮、ソフィ・カルによる不在と記憶の記録など──写真はかつてより「見えるもの」を写す以上に、「消えゆくもの」や「忘れられるもの」に向き合ってきた。フルタの《Lethe》もまた、現代都市という匿名性の極地にある空間において、記憶にならなかった時間や、存在の余白に宿る詩情を静かに掬い上げようとしている。
哲学的には、《Lethe》はマルティン・ハイデガーが語る「存在と死」の関係──すなわち人間が「死に向かって投げ出されている存在(Sein-zum-Tode)」であるという洞察とも共鳴している。
写された光の軌跡は、都市の痕跡であると同時に、死へと向かう私たちの存在そのものの痕跡でもある。時間のなかで欲望は痕跡となり、痕跡はやがて暗闇へと消える。長時間露光によって描かれた線は、生と死、記憶と忘却、光と闇のあいだで揺れる存在の輪郭をあらわにしている。
《Lethe》は、現代都市を批評するための作品でも、個人的な感傷を映し出すためのものでもない。
この作品は、見る者の内面に静かに響き、存在の詩的な感覚や、欲望の抽象的なかたち、そして忘却という名の風景を浮かび上がらせる。
誰かの人生の光が、波打つように揺れながら失われていくその瞬間を見つめるとき、私たちは、この作品の本当の主題は都市ではなく、「いま、ここにいる自分自身の姿」なのだということに気づくのだ。

